| 歴史を活かした町づくり |
| 益田市圏域の歴史と風土 |
| 砦から居城としての七尾城へ |
| 築城の時期は不明ですが、南北朝期の延元元年(1336)に南朝方の三隅氏が北尾崎の木戸に攻め寄せた記録があります。 城は市街地に面した急峻な尾根上に築かれた全長600m以上の長大な城で、日本海まで眺望できる最高部の本丸跡は、標高117mほどです。 大内氏の滅亡後、十九代藤兼が山陰に進出した毛利氏と吉見氏からの攻撃に備えて弘治年間(1555〜1557)に大改修したといわれ、益田氏が長門須佐に移ると廃城になりました。 大手(城の正面)は医光寺から真向かいになる谷邸で、大手の入り口の位置は不明ですが、医光寺総門は七尾城の大手門を江戸時代に入って移築したものと伝えられています。 発掘調査により、これまでに本丸跡を中心に五箇所で礎石建物跡(基礎になる石の上に柱を立てた建物跡)が発見されました。中でも本丸跡の北端では4メートル×10メートルの礎石建物跡が見つかり、多量の瓦も出土したことから、瓦葺きの櫓門があったと考えられます。また本丸跡に続く二の段の北端でも礎石列や砂利敷きの区画が発見されて、母屋と書院の建物があったと推定されています。さらに、二の段西側斜面の帯曲輪では5メートル×21.7メートルの長大な礎石建物跡が発見され、防御施設と倉庫の両方の性格を持った建物が考えられています。 このように発掘調査によって、戦国時代末期の七尾城にはしっかりとした建物が建ち、一定の期間藤兼、元祥父子が居住していたことが明らかとなり、合戦時の緊急拠点というこれまでの山城のイメージを塗り替える調査成果が得られています。 |

| ふるさと万華鏡 |
| 中世文化の薫るまちへ |
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「道路建設か文化財保護か」 昭和58年、益田地区は豪雨災害に見舞われました。中世の面影を色濃く残すがゆえに、狭く入り組んだ道や地割が災いして、救援と復旧に困難を極めました。このため、災害に強いまちづくりを目指した都市計画街路沖田七尾線が昭和59年に計画決定。昭和63年に事業認可を受け工事が始まりました。 「歴史を活かしたまちづくり計画」 「新しいまちづくりへ」 |
| 実現に向けて |
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歴史を活かしたまちづくりは、現在はまだ七尾城跡や三宅御土居跡の発掘調査や復元整備構想の策定段階で、目に見える形で整備されるまでにはまだ相当の時間を要しますが、拠点文化財を結ぶ道筋の整備については、平成9年度から歴史的地区環境整備街路事業によって整備が始められることになっています。 |