歴史を活かした町づくり
遺跡写真 2ページ目
益田市圏域の歴史と風土
中世息づく町、益田

益田市は島根県の西端に位置し、万葉の歌人柿本人麿の生誕と終焉の地、また画聖雪舟ゆかりの地として伝承地や文化財も多く,
、“美しい自然、人麿と雪舟の町益田”を観光のキャッチフレーズとし、平成5年には石見空港が開港しました。
さて、ここは中世の地方豪族益田氏が本拠とした地で、現在もなお旧七尾城下には益田氏に関わる史跡、社寺などがまとまって残されています。

益田市は居館三宅御土居跡の遺跡保存問題の解決を経て、現在では歴史を活かしたまちづくりを掲げ、これら貴重な歴史遺産を活用した中世文化の薫るまちを再生しようとしています。
中世の城下町益田地区には、県指定の七尾城跡と三宅御土居跡をはじめ、雪舟作と伝えられる国指定の医光寺、万福寺の両庭園、南北朝期に創設された重要文化財万福寺本堂、天正11年(1583)に再建された重要文化財染羽天石勝神社本殿、かつての七尾城大手門といわれる県指定医光寺総門などがあります。

さらに益田氏は海洋領主として活躍したことでも知られ、その貿易拠点の名残として市史跡中世今市船着場跡があり、益田市が購入した重要文化財益田兼尭像を描き、この地で没したと伝えられる雪舟の墓も市指定遺跡として残っています。

ふるさと万華鏡
西国生え抜きの豪族益田氏

益田氏は藤原鎌足の後裔といわれ、平安後期に石見国府の国司として下向した国兼を始祖としています。この国兼が土着して後、四代兼高が建久年間(1190〜1198)頃に本拠を益田に移して以後益田氏を称し、関ヶ原の役までの約400年にわたり山陰屈指の武士団として成長しました。
四代兼高は源平争乱時に周囲が平氏を支持する中、源頼朝の命を受けて壇ノ浦の戦いで手柄かけては、周辺の大勢力と巧みに結び、石見での地盤を強固なものにしていきます。
十一代兼見は山口の大内氏と結び、石見の豪族たちの指導的立場を確立しました。

十五代兼尭は応仁の乱(1467年)をはじめとした数々の戦乱で多くの武勲をたてるなど、その一生は戦いの連続でしたが、文化への深い理解者でもありました。大内氏の庇護下にあった雪舟が、兼尭の招きで益田を訪れたのも、大内氏との関係によるものでした。雪舟作「益田兼尭像」(重要文化財・益田市蔵)は厚遇してくれた兼尭に対するお礼といわれています。

兼尭の娘が大内氏の重臣陶弘護に嫁し縁戚関係となった益田氏は、毛利氏や津和野の吉見氏など周辺勢力と対立しましたが、陶晴賢が毛利元就に敗れると、十九代藤兼は毛利軍の一翼として山陰攻略にあたっていた吉川元春を仲介者として毛利氏と和睦しました。このとき、毛利氏一族に数々の贈り物をしたことが益田家文書に残っています。この中には虎の皮など海外の品もあり益田氏が大陸と交易していたことが当時の朝鮮の書物「海東諸国記」にも記されています。

七尾城本丸跡から望む平野と、七尾城から益田川を伝って続く三宅御土居跡、さらに日本海へと広がる景観は、まさに益田氏の海洋領主的性格を彷彿させます。和睦した益田氏は元就に重用され、二十代元祥は元服の時に元就から「元」の一字をもらっています。そして石西はもとより出雲、長門、さらには九州まで領地を獲得しました。
領地も人命も大きく失うことなく戦乱の時代を生き延びた益田氏は、徳川家康から領地を保証するという打診を受けていましたが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで敗れた毛利氏に従って、長門(現在の山口県)の須佐に去っていきました。
元祥はここでは永代家老として、財政難にあえぐ主家の財政立て直しに優れた指導力を発揮しています。

保存運動と歴史を活かした町づくり

島根県西部は昭和58年7月の山陰豪雨災害で大きな被害を受け、その後益田市でも河川改修と防災道路の整備が始まりましたが、この中で三宅御土居跡を横断している市道が防災道路として拡幅されることになり、しかも県指定地の一部も含まれることが分かったため、平成元年2月から遺跡保存運動へと発展しました。
以来、遺跡保存と街路整備との調整が難航しましたが、平成2、3年度の発掘調査の結果、遺跡自体の保存状態は良いと判断され、しかもこの館跡を中心に多くの益田氏関係遺跡が現存していること、千通もの中世文書を含む益田家文書が残されていることなど、中世益田の持つ歴史的な価値が改めて注目されることになりました。

このような中で益田市は、歴史学および都市工学の研究者、文化庁、建設省、県などの協力を得ながら検討した解決方策を「益田市歴史を活かしたまちづくり計画」としてまとめて市の方針としました。
この計画は三宅御土居跡と七尾城跡の国指定を盛り込み、三宅御土居については当面は保存と街路整備を両立させ、長期的には遺跡全域の復元整備に見通しをつける提案を内容としています。
さらに益田地区については、三宅御土居跡と七尾城の本丸跡、医光寺が一辺8町(約 872m)の正三角形に位置することから、これを「トライアングル構造」と名づけて、文化財拠点の整備と道筋の整備を進めることにしました。

益田氏の居館三宅御土居

三宅御土居跡は益田川沿いの微高地に立地し、これまでは南北朝時代に築かれた1町×2町規模の長方形の居館跡と考えられてきました。遺跡は泉光寺を中心に広がり、東西には高さ5mにも及ぶ当時の大規模な土塁が現存していますが、周囲に巡っていた堀部分には現在家屋が建ち並んでいます。

平成2年度からの発掘調査で周囲からは堀跡が確認されていますが、北側の堀は13m以上のやや浅い堀で、東西土塁の外側で発見された堀は急角度で掘られた幅約9mの箱堀でした。また南側では、杭と石積による護岸施設と思われる遺構が発見されたことから、かなりの水量のある川が流れていたと考えられます。一方、居館の内側の調査区からは多数の柱穴などが見つかったことから、建物跡が存在することが予想されます。

このように遺跡は全体的によく残り、その形は東寄りの部分が北に突き出した長靴形で、しかも12世紀の中国製の白磁や青磁が多数出土したことから、築造の時期も大幅に溯ることがわかりました。
また城からは益田川を隔てた対岸に位置するのは、益田平野の開発に必要な水利の管理や水運を掌握する目的があったといわれています。
なお、街路予定地全域の調査が終了した後は、遺構を保護する工法で埋め戻して歴史拠点にふさわしい街路整備が行なわれる予定です。