| 歴史を活かした町づくり |
| 益田市圏域の歴史と風土 |
| 中世息づく町、益田 |
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益田市は島根県の西端に位置し、万葉の歌人柿本人麿の生誕と終焉の地、また画聖雪舟ゆかりの地として伝承地や文化財も多く, 益田市は居館三宅御土居跡の遺跡保存問題の解決を経て、現在では歴史を活かしたまちづくりを掲げ、これら貴重な歴史遺産を活用した中世文化の薫るまちを再生しようとしています。 |

| ふるさと万華鏡 |
| 西国生え抜きの豪族益田氏 |
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益田氏は藤原鎌足の後裔といわれ、平安後期に石見国府の国司として下向した国兼を始祖としています。この国兼が土着して後、四代兼高が建久年間(1190〜1198)頃に本拠を益田に移して以後益田氏を称し、関ヶ原の役までの約400年にわたり山陰屈指の武士団として成長しました。 七尾城本丸跡から望む平野と、七尾城から益田川を伝って続く三宅御土居跡、さらに日本海へと広がる景観は、まさに益田氏の海洋領主的性格を彷彿させます。和睦した益田氏は元就に重用され、二十代元祥は元服の時に元就から「元」の一字をもらっています。そして石西はもとより出雲、長門、さらには九州まで領地を獲得しました。 |
| 保存運動と歴史を活かした町づくり |
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島根県西部は昭和58年7月の山陰豪雨災害で大きな被害を受け、その後益田市でも河川改修と防災道路の整備が始まりましたが、この中で三宅御土居跡を横断している市道が防災道路として拡幅されることになり、しかも県指定地の一部も含まれることが分かったため、平成元年2月から遺跡保存運動へと発展しました。 このような中で益田市は、歴史学および都市工学の研究者、文化庁、建設省、県などの協力を得ながら検討した解決方策を「益田市歴史を活かしたまちづくり計画」としてまとめて市の方針としました。 |
| 益田氏の居館三宅御土居 |
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三宅御土居跡は益田川沿いの微高地に立地し、これまでは南北朝時代に築かれた1町×2町規模の長方形の居館跡と考えられてきました。遺跡は泉光寺を中心に広がり、東西には高さ5mにも及ぶ当時の大規模な土塁が現存していますが、周囲に巡っていた堀部分には現在家屋が建ち並んでいます。 平成2年度からの発掘調査で周囲からは堀跡が確認されていますが、北側の堀は13m以上のやや浅い堀で、東西土塁の外側で発見された堀は急角度で掘られた幅約9mの箱堀でした。また南側では、杭と石積による護岸施設と思われる遺構が発見されたことから、かなりの水量のある川が流れていたと考えられます。一方、居館の内側の調査区からは多数の柱穴などが見つかったことから、建物跡が存在することが予想されます。 このように遺跡は全体的によく残り、その形は東寄りの部分が北に突き出した長靴形で、しかも12世紀の中国製の白磁や青磁が多数出土したことから、築造の時期も大幅に溯ることがわかりました。 |